絵画の価値を決定的にするサインや印の重さ

悩ましきサインの存在


・サインは鑑定の拠り所
優れた絵画には、必ずと言っていいほど作者のサインがあるものです。そこでサインだけは本物らしいサインを書き入れた贋作も多いようです。しかし、サインが無ければ優れていないとは言い切れません。絵画そのもののタッチや技術、構成力などがそれだけで純粋に評価されることもありますし、そうあるべきでしょう。それがしっかり認められれば、作者が著名な画家であることの証明に至ることにもなっています。

ですがそこにはサインが無いばかりに一定のハードルをかけられてしまうことにもなっています。よほど特徴的な技法を駆使していなければ、誰か別人の作品として永遠に扱われていてもおかしくはないのです。絵画のレベルが上がれば上がるほど、プロでもなければ似たり寄ったりに見えてしまう絵画も目立つようです。

サインのあるある話


・偽サインの恐怖がある
サインは価値を決定付けることができますので、著名画家と画風は酷似しているがサインの無い絵画があれば、その著名画家のサインを書き込む画商がいてもおかしくはありません。
これでその場は高値が付けられても、やがて偽サインであることがわかることになるものです。その瞬間、その絵画は贋作扱いをされ暴落してしまうのです。
ただし、本当の作者もまたその後、作品が認められ著名となることなどもあっています。するとまた価値は上がったりもします。

むしろ偽サインの珍しい例として価値が付加されることだってありそうです。
代表的な実例として同年代の画家であるルソーとミレーの作品でサインが入れ替わっていたりするものもあるそうです。このような場合、贋作であろうがどちらも高値が付いているはずです。

・そのつもりはない偽サインもある
偽サインだったとしても悪意の無い場合もあるようです。例えば著名画家の弟子が自分の作品を師匠に見せて、数か所の修正を加えられることは昔からよくあったことです。
その出来栄えの見事さに「これだけの修正でこれだけ変わったのなら、師匠のサインを入れておくべきです」などのやり取りが行われ、ついでに師匠がサインを入れることもあったのです。

・贋作でもサインを入れることもある
作成当初は贋作のつもりであっても、完成品が我ながら素晴らしいと自画自賛していると自分が作成した証拠にと自分のサインを入れることもあるようです。
もっともそれでは贋作の意味もありませんので、一見わからないように入れたがるらしいのです。これは作成者でないとわからない心理のようなものでしょうか。
もしかしたら「自分のサインがあるから贋作には当たらない」との主張もできるためでしょうか。

東洋美術ならではの印につきまとう厄介さ


書類にサインで済む西洋に対し、東洋では印を押すのが歴史になっています。
絵画についても同様で、面倒なことに作者名のわかる印でなく別名の印も押すことがあるのです。これはペンネームのようなものでしょう。同じ画家でも時期や画風が変わる度に使用する印を変えたりしていました。

また押す位置についても種類があってそれぞれに意味があったりして、なぜか幾つも押してあったりします。こうなってくると、一つの学問ジャンルが成立するとまで言えるくらいです。かなり面倒くさい代物ですので贋作も作りやすいかと思ったらそうでもありません。
印の弱点は全く同じものを作りやすいことにあります。よって絵画にサインが無く印だけの場合、より贋作を疑うべきとなるのです。
この点において、一般的に逆に贋作は東洋の作品の方が作りやすそうとも言えます。それだけに鑑定する側としては、作品の微妙なタッチを感じ取る嗅覚が求められているのです。